自分で言うのもなんですが、教育学部にいたころ、面白い問題があったので、その話をば(注:長いです。覚悟してください)
今日、公教育では、生徒(あるいは児童)の主体性を強く主張するようになってきている。確かに、民主主義・自由経済が浸透している今日の日本では、社会に貢献できる人間と言うのは「自主・自立」の精神を持つ者だろう。その点では、公教育が児童や生徒の主体性の成長を重視するのは当然のことである。
しかし、公教育は、また、日本の伝統的な習慣と言うのを捨てきれずにいるのではないだろうか。つまり、個性の主張ではなく、周りとの協調を目指す教育である。
一方では、個人に主張するように教え、また一方では、集団に合わせることを教える。これは、教える側が十分に注意の行き届いた教育をしなければ、教わる側は困惑するだけなのではなかろうか。
このことを現場の教師でさえも考えていない人が多いように思える。
私の推論が正しく、教師が特に意識せず、児童や生徒に自主性と協調性を教えてるのだとしたら、教わる側に心理的なダメージを与えるのではないだろうか。
ダブルバインド理論から、このことを考えて見たいと思う。
今日、「ダブルバインド」は「矛盾・板ばさみ」などと訳されてしまうらしいが、ベイトソンの用いる「ダブルバインド」と言う言葉はそれとは違う。
彼の言う「ダブルバインド」とは、異常なコミュニケーションを異常と思わせなくさせてしまう状況、コミュニケーションについてコミュニケーションする能力、言い換えれば、自分と相手の発話を方向づける能力(メタコミュニケーションの能力)を奪ってしまう状況のことだ。
この「ダブルバインド」の状況を構成する必要条件は、
①第一次禁止命令をだす。たとえば、「これをすれば罰する」「これをしなければ罰する」といった内容の命令。
②第二次禁止命令をだす。これは、第一次禁止命令と矛盾する命令(メッセージ)。
③第三次禁止命令をだす。つまり、命令を出される側(犠牲者)を命令から逃れることを禁止する命令。
以上三つだそうだ。
わかりやすい具体例は、親子関係、特に母子関係だろう。
子供は母親に依存しなければ生きていけない。この時点で既に第三次禁止命令が出ている。この場合に、母親が育児ノイローゼだったらどうだろう。この母親は、子供が近づいてくることに拒否反応を示す。または、子供に近づくなという雰囲気を作っている。しかし、育児ノイローゼだからといって、子供に、自分が拒絶していることを悟られまいとして、優しい言葉をかける。そうすると、子供は、コミュニケートする能力の発達段階なので、どのメッセージを取って良いかわからない。この状態が「ダブルバインド」である。
さて、話を先ほどの公教育に戻そう。
公教育が発する、「主体性・自主性」と「集団との協調性」とは、相反する主張となりえないだろうか。そして、義務教育期間は、児童・生徒はその場から逃れることができないので、「ダブルバインド」が生まれる状況ができあがっているのではないだろうか。
この推察からすると、今日の公教育は大変危険な状態にあるといって良いだろう。いや、もしかすると、公教育だけではないのかもしれない。
近年では、学校外の教育機関(塾や予備校)でも、「受験に縛られない学習」といった内容のスローガンを掲げ、同時に「○○中学・高校・大学、何人合格!」などという報告を、広告、あるいは塾・予備校校舎内に掲示している。つまり、「受験にこだわらす、その先も視野に入れて勉強しよう」というメッセージと、「有名な学校に受かりなさい」というメッセージが同時に流されてるわけだ。
このような教育を受けてきた子が、社会に出て人と正常なコミュニケーションが取れるのだろうか。
各教育機関はこのことについて深く考察し、児童や生徒を「ダブルバインド」に陥れさせない、十分注意した教育を、教える者各人が考えるべきではなかろうか。
...今回は論文調で書きました。
「です・ます調」だと媚びてるように見えるし、春から一応大学生なので、こういう文体を書くのに慣れようと思ってあえて論文調にしました。
そういえば、ある人に、「君の普段の文章と固い文章とを見比べると、別人のように思えてくる」といわれたことがありますが、そうでしょうか。自分的には、癖とかあると思ってるんですが...どうなんでしょう...
それでは、この辺で。
さようなら。
今日、公教育では、生徒(あるいは児童)の主体性を強く主張するようになってきている。確かに、民主主義・自由経済が浸透している今日の日本では、社会に貢献できる人間と言うのは「自主・自立」の精神を持つ者だろう。その点では、公教育が児童や生徒の主体性の成長を重視するのは当然のことである。
しかし、公教育は、また、日本の伝統的な習慣と言うのを捨てきれずにいるのではないだろうか。つまり、個性の主張ではなく、周りとの協調を目指す教育である。
一方では、個人に主張するように教え、また一方では、集団に合わせることを教える。これは、教える側が十分に注意の行き届いた教育をしなければ、教わる側は困惑するだけなのではなかろうか。
このことを現場の教師でさえも考えていない人が多いように思える。
私の推論が正しく、教師が特に意識せず、児童や生徒に自主性と協調性を教えてるのだとしたら、教わる側に心理的なダメージを与えるのではないだろうか。
ダブルバインド理論から、このことを考えて見たいと思う。
今日、「ダブルバインド」は「矛盾・板ばさみ」などと訳されてしまうらしいが、ベイトソンの用いる「ダブルバインド」と言う言葉はそれとは違う。
彼の言う「ダブルバインド」とは、異常なコミュニケーションを異常と思わせなくさせてしまう状況、コミュニケーションについてコミュニケーションする能力、言い換えれば、自分と相手の発話を方向づける能力(メタコミュニケーションの能力)を奪ってしまう状況のことだ。
この「ダブルバインド」の状況を構成する必要条件は、
①第一次禁止命令をだす。たとえば、「これをすれば罰する」「これをしなければ罰する」といった内容の命令。
②第二次禁止命令をだす。これは、第一次禁止命令と矛盾する命令(メッセージ)。
③第三次禁止命令をだす。つまり、命令を出される側(犠牲者)を命令から逃れることを禁止する命令。
以上三つだそうだ。
わかりやすい具体例は、親子関係、特に母子関係だろう。
子供は母親に依存しなければ生きていけない。この時点で既に第三次禁止命令が出ている。この場合に、母親が育児ノイローゼだったらどうだろう。この母親は、子供が近づいてくることに拒否反応を示す。または、子供に近づくなという雰囲気を作っている。しかし、育児ノイローゼだからといって、子供に、自分が拒絶していることを悟られまいとして、優しい言葉をかける。そうすると、子供は、コミュニケートする能力の発達段階なので、どのメッセージを取って良いかわからない。この状態が「ダブルバインド」である。
さて、話を先ほどの公教育に戻そう。
公教育が発する、「主体性・自主性」と「集団との協調性」とは、相反する主張となりえないだろうか。そして、義務教育期間は、児童・生徒はその場から逃れることができないので、「ダブルバインド」が生まれる状況ができあがっているのではないだろうか。
この推察からすると、今日の公教育は大変危険な状態にあるといって良いだろう。いや、もしかすると、公教育だけではないのかもしれない。
近年では、学校外の教育機関(塾や予備校)でも、「受験に縛られない学習」といった内容のスローガンを掲げ、同時に「○○中学・高校・大学、何人合格!」などという報告を、広告、あるいは塾・予備校校舎内に掲示している。つまり、「受験にこだわらす、その先も視野に入れて勉強しよう」というメッセージと、「有名な学校に受かりなさい」というメッセージが同時に流されてるわけだ。
このような教育を受けてきた子が、社会に出て人と正常なコミュニケーションが取れるのだろうか。
各教育機関はこのことについて深く考察し、児童や生徒を「ダブルバインド」に陥れさせない、十分注意した教育を、教える者各人が考えるべきではなかろうか。
...今回は論文調で書きました。
「です・ます調」だと媚びてるように見えるし、春から一応大学生なので、こういう文体を書くのに慣れようと思ってあえて論文調にしました。
そういえば、ある人に、「君の普段の文章と固い文章とを見比べると、別人のように思えてくる」といわれたことがありますが、そうでしょうか。自分的には、癖とかあると思ってるんですが...どうなんでしょう...
それでは、この辺で。
さようなら。